soring5 |
|
|
|
soring5's Blog
マンデーパリーグとは2001年から2005年まで実施されたパシフィック・リーグの毎週月曜日開催の公式戦の愛称である。
長年、毎週月曜日はセントラル・リーグも含めて、連戦による疲労を抑える目的から公式戦の開催を原則として組まず、祝日開催並びにシーズン後期の予備日が割り当てられる程度しかなかった。 しかし、パ・リーグの活性化につなげていこうという趣旨で2001年から毎週月曜日にパ・リーグの公式戦を増やすことで、この企画が実施された。その代わり毎週木曜日を原則休養(予備)日程に割り当てるようにした。基本的にはホームタウンのスタジアムで開かれる試合の2-3連戦の最初の試合が対象となっており、地方球場で開かれる試合については月曜日には開催せず、火・水の2連戦となるケースが一般的だった。しかし6チーム(3試合)揃うことは比較的少なく、1-2試合だけというケースも多く、月曜日にはテレビ・ラジオで野球中継を放送していない放送局がほとんどで、必ずしもパ・リーグの活性化につながってはいなかった。セ・パ交流戦が実現したことで2006年より廃止された。 レギュラーシーズン勝率首位のチームには、優勝ペナントとは別に優勝フラッグが贈呈される。チームは翌シーズンの間、これを掲げることが許される。レギュラーシーズン首位のチームがプレーオフを制すればペナントとフラッグを同時に掲げることが出来る。 読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants,読売巨人軍)は、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。また、その運営会社の事。商号は株式会社読売巨人軍。日本に現存する中で最も歴史の長いプロ野球球団である。 ジャイアンツを日本語に意訳 ( Giants = 巨人+複数形を軍 ) して名づけられた愛称が巨人軍であり、 これは球団名「株式会社読売巨人軍」に採用されている。 野球規約上定められている球団呼称は「読売ジャイアンツ」であるが、 広報等での球団の自称は多くが「巨人軍」であり、 一般には日本野球機構の球団名の「軍」を省略する慣習から「巨人」と略されることが多い。 現在、本球団主催公式戦が行われる本拠地である東京ドームでは、 すべての入場券に「巨人−○○」と記載されている。 一方、場内アナウンスでは「巨人」と称さず、 「読売ジャイアンツのスターティングラインナップをお報せいたします。」などと称されている。 したがって、本球団を指す呼称は「巨人」および「読売ジャイアンツ」の両方とも正しい事が明らかであるため、 どちらか一方のみの呼称が正しいとするのは適切ではない。 すべてのマスコミが「読売」と略称せず「巨人」と称するのは、 他球団と異なり、「巨人」という和名的愛称が広く定着しているためである。 ただし、ドラフト会議においては「読売」と称されている。 1934年11月2日、アメリカメジャーリーグベースボール選抜軍が来日し、全日本軍と親善試合を行い大盛況を博す。アメリカのプロフェッショナル野球を目の当たりにした市岡忠男・浅沼誉夫・三宅大輔・鈴木惣太郎の4人が、メジャー選抜軍を招待した読売新聞社の正力松太郎社長にプロ野球球団結成を働きかけ、同年12月26日に大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が誕生。全日本軍のスター選手を中心に結成された。 1935年2月14日、第1次アメリカ遠征に出発。チーム名を「東京ジャイアンツ」として米国内を転戦した。帰国後、1936年に東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称。同年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。この年より日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人はアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。この時の猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。1936年の秋季大会は勝ち点で大阪タイガースと同点になり洲崎球場で優勝決定戦が開催、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。これ以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし第1次黄金時代を築いた。なお、1937年と1938年には2リーグ制導入以後スタートした今日の日本シリーズに相当する年間総合優勝決定戦(7戦4勝制)が行われ、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと見なされているので、1937年春と1938年秋のリーグ優勝も通算のリーグ優勝の回数にカウントされている。 東京巨人軍は1946年のリーグ戦再開より再び参加。1947年読売新聞社が正式に経営に当たる事となり、球団名を東京読売巨人軍に改称。ニックネームを導入し、読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭に苦戦を強いられるが、監督・三原修の復帰や「赤バット」の川上哲治や千葉茂、青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰。また1948年オフには南海の別所毅彦を獲得。1リーグ最後の1949年に優勝を奪還。 1949年シーズンオフ、読売新聞社のライバルである毎日新聞が設立した毎日オリオンズのプロ野球参入に、のちにセントラル・リーグを結成するチームが反対。このことがきっかけとなり、読売ジャイアンツ・大阪タイガース・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・毎日オリオンズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立することになった。 1950年に復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目の同年こそ優勝を逃すものの、翌1951年からは、この年獲得した与那嶺要の活躍もあり、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。 1954年の2位を挟んで、1955年から1959年まではセ・リーグ5連覇。しかし1956年、1957年、1958年の日本シリーズでは、元巨人の三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの因縁の対決で3年連続して敗退。1959年にはリーグ優勝は果たしたものの、日本シリーズでは南海ホークスに4連敗。さらに1960年には三原が監督となった大洋ホエールズに6年連続最下位からの優勝を許し、水原監督は勇退した。この間、1958年に長嶋茂雄、1959年に王貞治がともに大きな期待を背負って入団。長嶋は、質の高いプレーと観客の目を意識したパフォーマンスを見せ、1年目から期待以上に活躍した。 1961年、川上哲治が巨人軍の監督に就任。川上は就任1年目にして見事に日本一を達成。その後、1963年にも因縁の西鉄を破って日本一に。1964年は王貞治がシーズン記録となる55本塁打を記録。この頃、王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力・人気ともに特別な存在となっていた。また1965年には、球界一の投手であった金田正一が同リーグの国鉄スワローズから移籍している。 1965年から1973年までは日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的にV9(ブイナイン・ブイきゅう)と呼ばれる。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は巨人(1951年から)・西鉄(1956年から)・阪急(1975年から)・西武(1986年からと1990年から)の3連覇であり、他球団の追随を許さない大記録となっている。 巨人は1970年代からのカラーテレビ普及による野球中継開始も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものとして「巨人、大鵬、卵焼き」と並び称せられた。また、同時期に連載が開始した漫画『巨人の星』も人気を集めた。 V9の要因にはまず、王・長嶋という主力選手の存在が挙げられる。V9の間、最優秀選手を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野茂コーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術(スモールボール)を取り入れ、先進的で緻密な野球が実践されたのも効果的であった。さらに、王と長嶋以外にも、金田正一・城之内邦雄・堀内恒夫・高橋一三などの投手や、森昌彦捕手、土井正三・黒江透修内野手、柴田勲・末次利光・高田繁外野手など質の高い選手がそろっていた。 V9時代後半は長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、前半よりも苦戦することが多くなった。そして1974年、中日に20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逸す。この年を最後に川上監督が勇退、同時に長嶋・黒江・森も現役を引退した。 1975年、前年に引退した長嶋茂雄が巨人軍の監督に就任。しかし、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、10月15日には広島東洋カープの胴上げを本拠地・後楽園で許すという屈辱的な1年だった。その年のオフに日本ハムファイターズから張本勲、太平洋クラブライオンズから加藤初をトレードで補強、翌1976年には前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす(同一監督での最下位となった翌年の優勝は史上初)。しかし、日本シリーズでは上田利治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で惜しくも敗れる。1977年、王貞治が通算本塁打数の世界新記録を樹立。チームも2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたも阪急に敗れた。 1978年オフ、当時法政大学の江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる(最終的には1979年シーズン開幕直前に、江川が一旦阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをする事で決着がつく)。1980年、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸を喫する。その責任を取り、長嶋監督が退任。また王も現役を引退、球団は大きな転換期を迎えた。 1981年、藤田元司が巨人軍の監督に就任。藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによる「トロイカ体制」が誕生。中畑清、原辰徳、篠塚利夫、西本聖ら若手が台頭し、4年ぶりのリーグ制覇を果たす。日本シリーズでも日本ハムファイターズを破って8年ぶりに日本一に輝く。1983年にもリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは西武ライオンズとの激闘の末、3勝4敗で敗れる。その後1984年から1988年までの5年間は王貞治が監督として指揮をとるが、1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは1983年のリベンジ再びと期待されたが西武に2勝4敗で敗退。1988年からは本拠地を後楽園球場から東京ドームへ移転するが、吉村禎章やウォーレン・クロマティのリタイアが響いて2位に転落、優勝した中日に12ゲームという大差をつけられる。王監督は責任を取りこの年限りで辞任。 1989年、藤田監督が復帰。チームは2位の広島に9ゲーム差をつけてリーグ優勝を達成する。同年の日本シリーズでは近鉄バファローズに3連敗を喫して窮地に追い込まれるが、近鉄の加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主旨のヒーローインタビューとその後にインタビューアーの「ロッテ(その年のパ・リーグ最下位)よりも(迫力がなかった)?」との質問に、加藤が「そうですね」と答えたことから「巨人はロッテよりも弱い」と報道されたことで選手が奮起。そこから一気に4連勝し、大逆転で17回目の日本一に輝く。1990年は斎藤雅樹の2年連続20勝もあり2年連続のリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは工藤公康、秋山幸二、清原和博らを擁する西武を相手に4連敗と惨敗を喫する。1991年は4位、1992年は2位と2年連続V逸。この年限りで藤田監督が勇退し、球団はまたしても転換期を迎えることになった。 1993年には長嶋監督が復帰。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を獲得。この松井がこの後、90年代から2000年代前期にかけてのチームの顔としても、打撃の中心としても、精神的支柱としても果たした役割は非常に大きい。また、現役大リーガーのジェシー・バーフィールドを獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振から3位に終わった。オフに、この年から導入されたフリーエージェント(FA)制度によりFA宣言をした中日ドラゴンズの落合博満を獲得する。しかし、ポジションが重複し、出場機会を奪われる事に危機感を感じた駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜ベイスターズへ移籍してしまう。なお、その横浜からは自由契約になった屋鋪要を獲得した。 1994年は落合 |
新着エントリ
新着トラックバック/コメント
カレンダ
アクセスカウンタ
今日:1
昨日:7
累計:11,502
|
|
|